sakura会TOPへ


2
007年10月23日十三夜、
夜中になぜか高ぶり目覚めてHP更新させました。もう24日です。from AITANI
 
九月十三夜 (のち)の月 二夜(ふたよ)の月   

本日,10月23日は、旧暦9月13日、十三夜の月は、二度目の秋の名月、俳句の季語では
「後(のち)の月」として詠まれます。

お月見というと旧暦八月十五日の十五夜がもっとも有名ですが、
日本では古来もうひとつ旧暦九月十三日の十三夜もまた美しい月であると重んじていたそうです。

一般に十五夜に月見をしたら、必ず十三夜にも月見をするものともされて、
これは十五夜だけでは、「片月見」といって嫌われていたからだそうです。皆さま、本日の十三夜の句をお寄せ下さいませ。

参考資料;仲秋の月は、更科の里、姨捨山になぐさめかねて、なほあはれさの目にも離れずながら、長月十三夜になりぬ。今宵は、宇多の帝のはじめて詔をもて、世に名月と見はやし、後の月、あるは二夜の月などいふめる。


九月十三夜 (のち)の月 二夜(ふたよ)の月 ・・
10月23日は旧暦十三夜
10月22日は中原中也生誕100年でした・・
 
中也忌や未だ病みたる後の月
中也忌や二夜の月に慟哭す   ・・AITANI
 

夭折の詩人中原中也(1907-1937)の生誕100年の展示は、横浜「港の見える丘公園」の南の端にある神奈川近代文学館で5月にみたことを思い起こします。


中也と太郎展
1925年11月に24歳で夭折した詩人画家富永太郎(1901-1925)と中原中也
画家としての太郎の作品は素晴らしくて、強く心惹かれました
中也は太郎を通してフランス近代詩への開眼をとげ、太郎が原紙を筆写したランボーの詩は後に中也が「ランボオ詩抄」「ランボオ詩集」に収め、
ダダを経てフランス近代詩へと、太郎を通して中也の視野は広がる。
太郎の詩帖には宮沢賢治の「春と修羅」もあったという。太郎の死後、中也は「春と修羅」を何冊も買い求め重要な影響を受けたという。

中也の詩論       

中也にとって詩を論ずることは、いかに生きるべきかを説くことと同意にある、早熟な中也の孤独、人への違和感は図るべくもない。
1933年に結婚して翌10月の長男、文也の誕生で得た安らぎはどれほどの深さだったのだろうか。思いがけない愛情の発見はどれほどのものだったろうか。今まで経験したことのない動物園に行き、新鮮な文也の目線で、象だの鳥だの鹿だのと追いかけるやさしい眼差し。
文也を得ての幸福感はどれほどのものだったろうか。
1936年11月に小児製結核で文也を失った悲しみの深さ、喪失感は、
中也の精神まで冒し、翌1月に神経衰弱で入院に至る。その年の10月22日に30歳で逝去。
 
  火戀しや声嗄るるまで泣かまほし  ・ ・AITANI
  生命享くるてふ幻よ火の戀し
  (せい)



 

また来ん春… 中原中也

この詩を読むと、ゆきどころのない喪失感が身体全体に押し寄せてきます。中也の慟哭の詩です。

誰でもが深い悲しみを味わいつ人生を歩んでいます。生きていくというのは斯くも過酷な悲しみがあるのかと思います、月日は百代の過客にして誰でもまた旅立ちます斯くありたき自分像にむかっていくしかありません。
少しずつの歩みですが仲間がいることは幸いです。


また来ん春と人は云ふ
しかし私は辛いのだ
春が来たつて何になろ
あの子が返つて来るぢやない

おもへば今年の五月には
おまへを抱いて動物園
象を見せても猫(にやあ)といひ
鳥を見せても猫(にやあ)だつた

最後に見せた鹿だけは
角によつぽど惹かれてか
何とも云はず眺めてた

ほんにおまへもあの時は
此の世の光のたゞ中に
立つて眺めてゐたつけが…
 
 
 
 

詩人画家富永太郎(1901-1925) について  
(自画像)               
   フリージア
          

2001年2月号「文学界」では、「詩学序説--七五調の喪失と日本近代詩の百年」と題した吉本隆明氏の巻頭論文を掲載しています。その中で吉本氏は、富永太郎の「恥の歌」を引用して批評した後、次のように続けています。

 

この詩人の詩は二種類しかない。「恥の歌」と一見すると逆のことをやっている詩は、この詩人からいくらでも見つけられるが、一つだけ挙げてみる。

   無題  富永太郎

  あけぼのは未だ来ず、
  静かにして平らかなる野よ。
  風は死人の髪の如く
  枯枝のほとりに顫ふ

  刈られざる雑草の上に、
  目のごとく露は結びそめ
  その上に暗き空かかりて
  星はかすかに青味を帯びて動く。

  彼方に地平あり、
  黒き断頭台は、されど地に隠れず。
  夜は濃くその上にあつまりたれど、
  音もなし、底知れぬ海のごとくに。

 これは日本語で書かれた異国語(この場合フランス語)の詩だ。島崎藤村の伝統的な七・五調の詩との比較でいえば「風は死人の髪の如く」という「風」の直喩は優れた直喩だが日本語の詩では絶対にといっていいほど使われない喩だからだ。(後略)




宮沢賢治の「春と修羅」  

心象のはいいろはがねから
あけびのつるはくもにからまり
のばらのやぶや腐植の濕地
いちめんのいちめんの諂曲てんごく模様
(正午の管楽くわんがくよりもしげく
 琥珀のかけらがそそぐとき)
いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
つばきし はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
(風景はなみだにゆすれ)
碎ける雲の眼路めじをかぎり
 れいらうの天の海には
  聖玻璃せいはりの風が行き交ひ
   ZYPRESSEN春のいちれつ
    くろぐろと光素エーテルを吸ひ
     その暗い脚並からは
      天山の雪の稜さへひかるのに
      (かげらふの波と白い偏光)
      まことのことばはうしなはれ
     雲はちぎれてそらをとぶ
    ああかがやきの四月の底を
   はぎしり燃えてゆききする
  おれはひとりの修羅なのだ
  (玉髄の雲がながれて
   どこで啼くその春の鳥)
  日輪青くかげろへば
   修羅は樹林に交響し
    陥りくらむ天の椀から
    黒い木の群落が延び
      その枝はかなしくしげり
     すべて二重の風景を
    喪神の森の梢から
   ひらめいてとびたつからす
   (気層いよいよすみわたり
    ひのきもしんと天に立つころ)
草地の黄金をすぎてくるもの
ことなくひとのかたちのもの
けらをまとひおれを見るその農夫
ほんたうにおれが見えるのか
まばゆい気圏の海のそこに
(かなしみは青々ふかく)
ZYPRESSENしづかにゆすれ
鳥はまた青ぞらを截る
(まことのことばはここになく
 修羅のなみだはつちにふる)

あたらしくそらに息つけば
ほの白く肺はちぢまり
(このからだそらのみぢんにちらばれ)
いてふのこずえまたひかり
ZYPRESSENいよいよ黒く
雲の火ばなは降りそそぐ